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音楽三昧演奏会(2002年1月18日ノバホール・ホワイエ)

〜ちょっと辛口演奏会評 「筑波の友」第188号〜

 音楽三昧の演奏が不出来であったことは、これまで一度もなかった。アンサンブルはどんなときにも完璧だし、態度は常に真摯。作品の魅力と彼らの手法との間に微妙なくい違いを感じることもあったが、僕はいつも満ち足りた気分で家路に着いていた。今回もそう。作品と編曲と演奏と、そこから生まれる音楽との完全な一致において、それはこれまで以上に見事な演奏会だった。僕にとっても、ひょっとすると彼らの活動の中でも、この夜は特別なものになるかもしれない(1月18日、ノバホール・ホワイエ)。

 プログラムには彼らが最も得意とするフランスの音楽が並んだ。最初のベルリオーズの序曲『ローマの謝肉祭』のざわめきと高揚、フォーレのシシリアーノの悲しみとプレリュードの悲劇、ラヴェルの『ソナチネ』の典雅な抒情、作品と編曲の調和において、どれも自然だし、どれもが美しい。僕にはこれだけでも充分だった。

 しかし、音楽三昧のこの日の意図は、後半に集められたドビュッシーのピアノ曲にあったに違いない。『12の練習曲』から選ばれた3曲の実験性や『小組曲』の繊細と諧謔、そして『喜びの島』の知的な熱狂、僕たちはそこで印象派の様々な、そしてひとつの姿を体験する。それらはこれまでの彼らのドビュッシーとは何かが違った。結局のところ、問題は手法ではなく何を語りたかったかということだろう。

 音楽を響きという<かたち>で捉え、そこに優しさや悲しみを求めた彼らは、ドビュッシーの中に全く別のものを発見した。新しい<かたち>をもって、音楽の、そして僕たちの未知なる物を追求しようとする行為、それにはラヴェルよりもドビュッシーのほうが適している。彼らはドビュッシーを再現しただけでなく、その新しさを継承した。音楽三昧にはフランス音楽がよく似合う。もしもムッシュー・クロッシュがホワイエに居あわせたとしたら、どんな感想を抱いただろう。


音楽三昧コンサート(2000年7月7日ノバホールホワイエ)

〜ちょっと辛口演奏会評 「筑波の友」〜

 完璧なテクニックによる演奏だからといって、全てがそのまま心に残るとは限らない。7月のビールのように快感と一緒にどこかへ消え去ってしまうこともある、勿論、それと反対の場合だってあるのだが―――実際、僕たちはそれに出会うために音楽を聴きつづけている―――そこでは一瞬一瞬の音の造形がしっかりと記憶の壁に刻まれる。最近の例では、セルゲイ・ナカリャコフのトランペット・リサイタルを前者とするならば、後者は断然「音楽三昧」の演奏会であったろう(7月7日ノバホール・ホワイエ)。

 この日の彼らのプログラムは、前半がグリーグの劇音楽「ペールギュント」とショスタコーヴィッチのバレエ組曲「黄金時代」、後半がプロコフィエフのバレエ「ロミオとジュリエット」とチャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形(第一幕より)」という組み合わせ。どれもがとてもいい演奏だったけれど、特にグリーグの「ソルヴェイグの歌」とプロコフィエフの「ティボルトの死」はいかにも彼ららしい出来、僕はこの2つだけで充分すぎるほど満たされた。

 ヴァイオリンとフルートによる「ソルヴェイグ」は緩やかな機織の音を背景に感傷と知性のギリギリのところから生まれた音楽。落ち着いたテンポによる簡素で自然な表現は、〈かたち〉にならない静謐な何かを湛え、あたかも夢の浮き橋をたどるかのよう。あまりに密やかだったので、曲が終わったのに気づかなかったくらい。

 一方、「ティボルトの死」は対照的。編曲も演奏も劇的ということにおいては、これまでの中でも指折りのもの。ひょっとすると彼らにとって劇音楽とかバレエ組曲という言葉は無用のようでいて、実は案外重要なのかもしれない。最後に現れた激しく厳しいチェロのピチカートを前にして、いったい誰が音楽を語り得ようか。